ガッキーを目指すアラフォーおかんのブログ@3人目妊娠中

夫が好きすぎるアラフォー主婦。現在3人目妊娠中です。

ダスキンのセールスにて

先日、次男と家にいたら、チャイムがなった。いつものように宅急便かなと思ったら、ダスキンの訪問販売員だった。普段なら訪問販売はお断りするのだが、新人研修中と言うことで、ひとまず話を聞いてみることにした。販売活動の一種で、試供品を配っており、もしよければ使ってくださいということで、2種類のモップと換気扇フィルターと浄水器を取り付けて帰って行った。

 

私は訪問販売が苦手で、過去には新聞の勧誘すらうまく断れず、子供新聞をとる羽目になり、3ヶ月ほど月500円無駄に支払い続けたこともあった。なので、強引な営業に対しては、かなり引き気味で接してしまうし、なるべく近づかないほうだ。

しかし、今回迂闊にも訪問販売に対応してしまったのは、昔から私の実家ではダスキンにお世話になっているので、企業イメージがよかったからである。決して、お兄さんが若くて爽やかなイケメンだったからではない。

 

お兄さんは、「水道水の不要なものを取り除いてくれますし、操作も簡単です!」と自信満々に説明してくれた。しかも、目の前で、よくわからない検査キットみたいなものを取り出し、水道水の不純物が取り除かれていることを見せてくれた。心底感心して、「これならレンタルしてもいいかもなあ・・・」と、かなり興味を持った。

換気扇のフィルターは、おまけでつけてくれた。正直、換気扇に関しては、普段から換気扇フィルターを取り付けており、自分で掃除すればいいと思っていたので、そこまで興味がなく、「なんか得したなー」くらいの気持ちだった。一方、私は水道水の不純物を取り除くような魔法など使えないので、やはり文明の力に頼るしかなく、レンタルするなら浄水器の方だな、となんとなく考えていた。

 

 

仕事から帰ってきた夫に、早速話をした。夫はよく水を飲むので、浄水器にかなり関心を持ってくれるだろうと期待して、まるでお兄さんの営業魂が乗り移ったかのように、浄水器推しで話をしていた。ふんふんと一通り話を聞いた夫が、冷静に口を開いた。

 

「なんで浄水器が必要なん?日本の水道水ってかなり厳しい基準で検査されてて、健康には問題がないって言われてるレベルなんやで?どういう理由で、その不純物を取り除く必要があるのか、ダスキンの人は何か言ってた?」

「しかも、トマちゃんは、もともと水道水は絶対飲まないやろ?浄水器を取り付けたからって、水道の水をコップに入れて飲めるの?」

「別に反対はしてないけど、ほんまにいる?浄水器使うくらいなら、俺はペットボトルの水を常備しておくほうがいいと思う。災害の時にも助かるし」

 

そうなのだ、私は水道水が飲めないのだ。たとえ浄水器を通しても、水道から出てくる水が、どうしても飲めない。そして、水道水の不純物を摂取することで、どんな影響があるとかないとか、そんな話まではしなかったなあ。確かに、なんで浄水器が必要なのか、そこまで考えてなかった。ただなんとなく、浄水器があると、美味しい水が飲めるに違いないと思い込んでしまったけど、言われてみればそんなに必要ないかもしれない・・・。夫の言葉で、浄水器に対する熱は一瞬で冷めてしまった。

 

モップはすでに子供たちのおもちゃになっているし、浄水器もいらないとなると、お兄さんには申し訳ないけど、今回は断らないといけないなあ・・・と考えていると、夫が換気扇を指さして言った。

 

「こっちは何?これもダスキンがつけていったの?」

「そうそう。でも、換気扇の掃除は自分でできるし、フィルターも自分で交換するし、これはいらんかなと思ってるねん」

「なんで?性能についてはよくわからんけど、これでトマちゃんの掃除がラクになるなら、こっちの方が絶対にええやん。こっちはレンタルしたら?」

 

自分とは全く違う考え方で、換気扇フィルターを選んだ夫にびっくりしたし、なんだか嬉しかった。私は、自分でできることは自分で、というタイプなので、夫のような考え方は思いもつかなかった。しかし、夫が「妻の負担が軽くなるもの」という基準でモノを選んでくれたことが、最近家事と育児に追われて疲れていた自分の心に、少しだけジーンと沁みた。

 

 

 

夫は根っからの理系男子なので、かなり合理的な考え方をする。一方、私は文系女子なので、常日頃から感覚で生きているし、感情に左右されやすいほうだ。無駄を嫌い、効率を重視する夫を、時々冷たいなあと思うこともある。反対に夫も、物事を決めるときに感情を優先する私を、「合理的に考えればもっと簡単に解決できるのに、めんどくさい」と思っているに違いない。

 

大体の物事において、私の方が夫の合理性に助けられていることの方が、圧倒的に多い。夫の考え方はいつもシンプルで、無駄がなく、答えが簡単だ。いろんなことをいろんな方向から考えすぎて、こんがらがっている私を、「難しく考えすぎちゃう」と一瞬で解いてくれる。しかし、「トマちゃんって、人のことよく見てるね。確かに◯◯なら、そういう考え方すると思う。俺は、他人に興味がないからさ。そこまでは気付かんかったわ」と、合理的ゆえに見落としがちな情緒的な部分を、私がすくい上げることもある。

 

 

価値観が全て同じなら、きっと夫婦喧嘩なんてしなくなるのかな、と思うことがよくある。どんな時も同じ歩幅で、同じ方向に歩んでいけたら、すごくラクだろう。

でも、今日みたいに、その価値観の違いの中に、お互いを思う気持ちが見つけられると、すごく嬉しい。価値観の違いでぶつかった時に、どれだけお互いに譲り合えるか、どれだけお互いに思い合えるか。生まれた場所も、過ごした時間や環境も生き方も全く違う、赤の他人だった2人が一緒になるということは、そういうことの繰り返しだ。価値観の違いを煩わしく思わず、さらに夫婦になれるチャンスだと思おう。

 

ダスキンのお兄さんに、換気扇フィルターを注文するのが待ち遠しい。そして、浄水器を断る理由を話すのも、ちょっと楽しみだ。

 

 

金曜日は◯◯の日

6年ほど前、夫と付き合ってしばらく経った頃、夫の住んでいたアパートのキッチン戸棚を開けると、とんでもない量のレトルトカレーの箱が積み上げられていた。夫の部屋はめちゃくちゃ汚くて、とんでもなく散らかっていたので、よく私がせっせと片付けていたのだが、戸棚の中で几帳面に積み上げられたカレーの箱には、思わず目が点になった。

おそらく、50箱ほどあったと思う。「この箱、何?」と聞いたら、「今まで食べたレトルトカレーの箱」と答えたので、なんでそんなものを捨てずにとっているのか尋ねると、「こんなレトルトカレー食べたんやって、記録に残したいから」と言う。確かに、その辺のスーパーで見かける商品はほとんどなく、少しお値段高めのご当地カレーの箱が多かった。結局、結婚して引っ越すときに、大量の空き箱たちはあっさり捨てられてしまったのだが(私に)・・・。

 

この空き箱の一件で、夫がかなりカレー好きなことを知った。外食の時もカレーを注文することが多かったし、引越し先ではどこでもお気に入りのカレー屋を見つけて、よく食べに行った。夕食にカレーを作ると、「やった!今日はカレーか!」と子供みたいに喜んで、びしゃびしゃになるまでルーをかけて食べ、おかわりまでする。

 

夫が毎回嬉しそうに食べてくれるので、私もカレーを作るのがどんどん楽しくなり、豚骨や鶏ガラでスープを取ったり、いろんなルーを組み合わせたり、カレーに合うお米を探してみたりして、「おうちカレー」を充実させることを情熱を注ぐようになった。

 


そんな私が1年ほど前から作り始めたのが、スパイスカレーだ。

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私は料理がそこまで得意ではないので、フレンチを作れと言われたら絶対無理だし、魚の煮付や煮物などの和食を作っても、味がぼんやりしていまいちな仕上がりになる。味付けを濃くして誤魔化そうとしても、夫は減塩や糖質に厳しいので、「もうちょっと薄味の方がいいよ」と指摘されてしまう。

 

その点、スパイスカレーはコツさえ掴めば、すごく簡単だ。しかも、自分流にアレンジができて、市販のルーを使うよりはるかに脂質・塩分を少なくできる。味付けがスパイスだけなので、少々味が「??」でも「異国のカレーっぽいね」「今日は癖強めだね」と、如何様にも表現できるのがありがたい。

実際、夫は私の作るスパイスカレーにかなりハマっていて、「トマちゃんのカレーを食べたら、もう外で食べる気にならない」と言ってくれるまでになった。これは嫁として、めちゃくちゃ嬉しい。美味しいとか絶品とか、そういう褒め言葉をもらうより嬉しい。

 

もちろん、スパイスカレーを作り始めてまだ1年なので、納得いかない仕上がりになることも多い。「今日は辛すぎる」「一口目のパンチが足りない」「クミンシードの苦味が出てしまった」と、毎回反省することばかりだ。それでも、夫は「美味しいよ」と言って食べてくれる。

何よりも、お腹いっぱい食べても胃もたれしないのがすごい。夫はこの点をかなり評価してくれていて、「今までのカレーも美味しかったけど、いっぱい食べすぎて、翌朝の自分のゲップからもカレー臭がした。やっぱり市販のルーは脂質が多いんやろうな。でも、トマちゃんのスパイスカレーは、いくら食べても胃もたれしないし、逆に胃がスッキリするわ」と、消化の良さを実感しているようだ。

 

スパイスは元々生薬として使われているものが多いため、「カレーは食べる漢方薬」と言われている。クミン、ターメリックコリアンダー、カイエンペッパー、カルダモン、クローブ、シナモン・・・それぞれのスパイスに、さまざまな効能があるが、私が特にお勧めしたいのが、消化促進の作用があるクミンと、便秘を改善させるコリアンダーとカイエンペッパーだ。大体この3つに、抗酸化作用のあるターメリックを足せば、一般的なスパイスカレーができる。私は、生姜を多めに入れて、さらに消化促進・免疫力向上・抗酸化作用を高められるように意識している。

 

こんなふうに、夫の健康を意識しながらカレーを作ることは、私にとっても特別な時間である。我が家では、海軍のように「金曜日はカレーの日」と決めているのだが、カレーを作る時間「夫は今日はどんな顔で食べるだろうか」「ちょっとびっくりするようなカレーにしてみようかな」「前に作ったパプリカ入りのカレー、喜んでたなあ」とか、夫のことを考えながら作っている。どんなに喧嘩をしていても、日々の不満が積もり積もっていても、金曜日のカレーを作る時間に、大抵いつの間にかリセットされていて、「ああ、今週も夫のことを考えながらカレーを作っちゃったなあ」と、一人で苦笑いする。

 

時々ふと思う。もし、私たちが離婚しても、きっと夫は金曜日になるとカレーのことを思い出すだろうし、私もきっとカレーを作るたびに夫のことを想うだろう。私はそれを望んでいるし、そうなるべきだと思っている。別々の人生を歩むことになっても、私のことはなかったことにしないでね。そんな呪いをかけるような気持ちで、私は金曜日にカレーを作る。

 

まさか自分の妻が、離婚後のことまで考えながら、大好物のカレーを作っているとは、夫は思いもしないだろう。 金曜日のカレーは、私がいかに夫のことを好きかを思い知らされる時間で、自分の執拗さに少しゾッとする瞬間でもある。

 

 

 

夫とゲームをするのが嫌になった

表題の通り、夫とゲームをするのが嫌になって、とうとう喧嘩をしてしまった。 

 

 

これまでの、夫とゲームをしてみた話はこちら↓

kawaiiyomeninaru.hatenablog.com 

kawaiiyomeninaru.hatenablog.com

 

 

「ゲームしよう」と声をかけた時から、なんだか夫は気乗りしない感じで、「えー、うん。まあ俺はせえへんけど、したかったらいいよ」と、「ドッチヤネン」と突っ込みたくなるような優柔不断な返答をしてきた。

その時点で、内心モヤッとしたのだが、あまり気にしないようにして、「じゃあ今日はコントローラーは1つにするね」と、さっさと準備をした。兼ねてからずっと試してみたかったRPGをするチャンスだと思ったので、「FFしよ、FF」とソフトを選んでいる傍から、「ふーん、好きなやつしたらええやん」とチラチラ画面を見ながら言うだけの夫に、「なんだかなあ・・・」と、全然縮まらないお互いの温度差が、無性に腹立たしかったし、寂しい気持ちになった。

 

結局FFを始めても、私には分からないことばかりで、最初から躓く羽目になった。私は昔、FFⅩ-2あたりをやったことはあるのだが、その時の記憶を朧げに思い出そうとしても、ゲームの進め方が全く分からなかった。呪文の意味やバトルシステムが全くわからず、何度も夫に「これはこうでいいの?」「なんでこれは変えれないの?」と聞いた。

聞かれた夫は面倒くさそうに「俺もそんなん知らんし」「さっき説明あったやん、なんで聞いてないの?」と、半ギレで答え、最終的には「ちゃんと説明されたんやから、理解してから進めたらいいやろ!?ほら、また死んだし。もうあかんやろな、全滅やわ」と、投げやりに言い捨てられたので、私もついに、「もうやめる。全然面白くない」とゲームの電源を切った。

 

むすっとしたままお風呂に入り、リビングで寝転がっている夫を放って、さっさと寝室に行った。その後、のそのそと寝室に来た夫が、「なんでそんなに怒ってるん」と言うので、「私は、夫婦で楽しくゲームしたいなと思って、やろうって言ったのに、今日は全然楽しくなかった。怒ってるんじゃなくて、悲しい気持ちになった。もうゲームしない」と返事だけして、そのまま寝た。

朝になって朝食を作っていると、夫が「昨日はごめん」と言って起きてきた。

 

 

 

夫婦になると、気持ちのすれ違いが起こりやすくなる。その原因は、惰性だと思う。自分の気持ちを伝える努力をしなくなるのだ。

きっとその夜、夫はそんなにゲームをしたくなかったのだろうし、ゲーム自体にもう飽きているのかもしれないし、他に見たいテレビがあったのかもしれない。もう寝たいと思っていたのかもしれない。だったら、そう言ってくれたらいいのだ。なのに、「やりたいならやれば」と、中途半端に生ぬるい優しさで、私を喜ばせようとするから、こうやってすれ違いが起こるのだ。

「今日はゲームしたくないなあ。代わりに、ゆっくり話がしたい」と言ってくれれば、私は喜んでゲームを放り投げて、夫と話をする。「今日は疲れてるから、もう寝たい」と言ってくれれば、「今日は私一人でゲームするから、寝てきていいよ」と、夫の疲れに多少気遣いができたかもしれない。それを、「したいならすれば?」と相手に行動を委ねたくせに、自分の意にそぐわないと勝手に怒り出すのは、少し勝手すぎやしないだろうか。適当にその場をやり過ごそうとするから、こうやってお互いに心がささくれだっていくのである。

 

もちろん、私ももっと踏み込んで、夫に聞くべきだったのだと思う。「私は一緒にしたいんだけど、もし今日はゲームしたくないならやめとこうか」と、もし付き合いたての彼女だった頃の私なら、そう聞いただろう。それをしなくなったのは、私の妻としての惰性であり、夫婦にありがちな、生ぬるい環境への慣れなのだと思う。

 

 

似たようなことが、つい先日もあった。

少し予定が立て込んでいた日、夫婦揃って昼食を食べ損ねてしまった。私は買い物ついでにお惣菜を買って、夫の運転する車に乗り込み、「お惣菜買ってきたから、家で食べよう」と声をかけると、「家で食べてる時間なんてないよ」と少しムスッとした顔で夫が答えた。「お腹空いてるやろ?」と聞くと、「食べたいんやったら、トマちゃんの好きなようにしたら?」と言われてしまい、心の中で「なんか違う!」と思った。

私は、夫もお腹が空いてるだろうから一緒に食べようと思って買ったのだ。「これなら食べるかな」とか「これは苦手だろうな」とか、夫の顔を思い浮かべながら選んだのだ。それなのに、「トマちゃんが好きなようにしたらいい」と言われてしまうと、まるで私の気持ちなんて無かったみたいになるじゃないか。それなら、トマトが入っていようが、きゅうりが入っていようが、自分が食べたい物を選んだのに。(夫はきゅうりもトマトも食べられない)

まるで、糸の切れた凧みたいな気持ちになる。自由に飛んでいいよと糸を切られて、結局風に飛ばされて、何かにひっかかってしまったみたいな、そんな気持ち。大事にされているようで、ただほったらかしにされている、そんな気持ち。

 

でも、きっとこれも、夫だけが悪いのではない。私がきちんと言葉で伝えていないせいなのだ。一緒に食べたいと思って選んだことを、面倒くさがって、言葉にしていない自分の責任。きっと、「一緒に食べたくて買ったんだけど」と一言付け足すだけで、夫は普段通り優しく「じゃあ車の中で食べよう」と言ってくれたに違いない。

 

 

夫婦になっても、私たちは男と女なので、全然脳の構造が違うまま、これからも生きていく。察してほしい女とは違い、男は元来察さない動物なので、どうしてもこの違いは埋められない。だから、どうしても言葉の力が必要になってくる。夫婦だから、まるでテレパシーのように、お互いの気持ちが分かるようになるなんて、そんなことはない。お互いの生態は理解できるのかもしれないが、複雑かつ単純な感情など、夫婦でも親子でも完全に分かり合えることなどない。私と夫の間には、些細な言葉こそ必要だ。

「人を変えるよりも、自分が変わる方が簡単だ」と昔誰かに言われたのを思い出す。確かにその通りで、夫に何かを察してもらうのを待つより、自分から言ったほうが良いに決まっている。

 

夫婦は難しい。でも、それはお互いに気持ちを言わないから難しいのであって、いつでも言い合える環境にいることを忘れてはいけない。言葉の力を、もう一度信じてみようと思う。

だから、私はまた、きっと、夫に「ゲームしよう」と言う。